webと知能と新皮質

考える脳 考えるコンピューター

考える脳 考えるコンピューター

なかなかまとまって読む時間が無く、まだ読了できていないのだが、かなり楽しい本。


コンピューター上に知能を作り上げるには、きちんと脳を理解する必要があるのに、誰もそのことをわかってないのだ*1、という本。
この本で繰り返し繰り返し述べられるのが「新皮質」と「パターン」と「シーケンス」。
うちには1歳ちょっとの娘がいるのだが、まさにこの本に書かれている「パターンのシーケンス」が新皮質にちゃくちゃくとできつつあるのだなあと実感させられる。


朝出かけるときに「いってきまーす」と手を振ると、最初の内は喜んで手を振り返してくれていた。
次に、いなくなった後にさびしくなって泣くようになる。
続いて、「いってきまーす」と手を振られるといなくなる、悲しくなるという「シーケンス」を憶えて、手を振られたら嫌がって泣くようになる。
出かけるときに必ず黒いカバンを持つという「パターン」を憶え、その後に先ほどのシーケンスが続くことを憶えて、黒いカバンに荷物を入れているだけで寄ってきてガシッとつかんで行かせないようにする。
さらに最近は出かける前にひげそりの音がするという「パターン」も憶えつつあり、ひげを剃っていると離れた部屋から飛んできて、不安げに「まだ出かけない?」とでもいう目でしばらく見つめた後、去っていく。このパターンが先ほどのシーケンスに加えられたら、ひげも剃らせてくれなくなるのだろうか。
つい先日一人で立てるようになったばかり、よちよち歩きの距離がやっと長くなってきたばかりなのに、まさに知能が芽生えつつあるのだなあ、と感心することしきり。


そういう「パターンのシーケンス」が蓄えられるものとしてこの本で書かれているのが「新皮質」。
この新皮質はとても柔軟で、次のような特徴を持つという。少し長いが引用。

ある機能が典型的な成人の脳のどこで実現されているかを示す地図が、だんだんとできあがっていく。「ここが顔を認識する領域、ここが数学の領域、ここが音楽の領域」などと簡単に指摘できる。脳がこれらの仕事をおこなう機構はわかっていないから、機能ごとに異なった方法がとられていると考えてしまうのも無理はない。
だが、本当にそうだろうか?

  (中略)

新皮質の神経網が驚くほど「柔軟」に形成されることも、神経科学者は発見した。つまり、流れ込む入力の種類に応じて、つながりと機能を変える。たとえば、生まれたばかりのフェレットの脳に手術をほどこし、目からの信号がふつうは聴覚野として発達する領域に送られるようにする。その結果、驚くことに、聴覚野の中に視覚を伝達する経路がつくられる。べつの表現をすれば、このフェレットは脳の通常なら音を聞く領域を使って、ものを見ている。

  (中略)

新皮質のあらゆる領域では、単一の強力なアルゴリズムが実行されている。それらの領域を適切な階層につなぎ、感覚入力を流し込めば、周囲の環境が学習される。


(「考える脳 考えるコンピューター」 p64-67)

新皮質は特殊なパーツを汲み上げたものではなく、「強力なアルゴリズム」を持ってはいるが、きわめて均質な存在で、その性質はつながりによって決まり、またつながりは入力によって決まる。
とても刺激的な示唆だと思う。


脳がこの通りにできているのか、そうだった場合に「知能を実現するコンピュータ」はどうやって作ることができるのか、という命題はこの本の後半に任せることにして、web技術者の端くれとしては、ついついこの考え方を web に当てはめてみたくなる。


web は、「つながり」を表現しうる「シンプルなアルゴリズム」を持つ、とても均質な構成要素からできている。
つまり http プロトコルハイパーリンク言語、そしてそれらを実装する www サーバとブラウザだ。
しかし web の表現する「つながり」は、残念ながらニューロンシナプスに比べるととても微弱で、リンク先に対してコンテキストを与えることしかできない。
http と html はこのコンテキストすら取得・活用するすべを持たず、したがってせっかくの「つながり」は「蜘蛛の巣」にしかならなかった(もちろん、世界には情報の蜘蛛の巣すらなかったので、それだけでも十二分に素晴らしかったのだが)。


このコンテキストを、つながり合っている当事者同士ではなく、外から読み取って可視化したのが GooglePageRank および検索エンジンだ。
これで「つながり」をある程度制することができるようになり、web はずいぶん「賢くなった」。
とはいえ、新皮質的要素をある程度備えつつあるものの、まだまだ「知能」と呼ぼうとすら思えない。なぜか。


さて話が急に戻るが、仕事に出かけるときにはいつも黒いカバンを持っている。
この「入力」のおかげで、黒いカバンを持って手を振ると娘は泣くのだが、カバンを持たずにいくら手を振っても泣かないのだ。まさに「知能」を感じる瞬間だ。


つまり、入力によって性質を変える(決して「入力によって出力を変える」ではない)という特徴を持っていることが「知能」のための必要条件であり、そしてその特徴を有するためには、外付けではなく各構成要素が自前で「つながり」を制することができる「もう少し強力なアルゴリズム」(ただし均質な奴)が必要だというのがこの考え方だ。


「もう少し強力なアルゴリズム」とは具体的にはどんなものだろう。
少なくとも以下のような特徴を有している必要があるのではないかと考えている。

  • 単なるリンク(によるコンテキスト)ではなく、具体的なデータを伴う「入力」を与えることができる
  • 与えられる「入力」は必ずしもあらかじめ規定された形式とは限らないが、扱うことだけはできる


「引数の縛りがない一種のリモートプロシージャのようなもの」というと身も蓋もない、か?
もちろんこれだけでは「入力によって性質を変える」ところまでたどり着けていないわけだが、web の向かう「技術的な方向」(Web2.0 に代表される「マーケティング的な方向」ではなく)の思考実験としてこういう発想もありかな、と思う。

*1:実際、最初の2章はそれをえんえんと愚痴っている……